2007年9月 1日 (土)

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Lesson 8

動物達は情報を送り、また受け取る必要がある。特に重要な4つの情報がある。

1.どうすると、つがいとなる相手が見つけられるか。(種の生存を確保するため)

2.どこで食べ物や水が見つけられるか

3.周り危険か

4.どうすれば縄張りに、その正当な所有権が他人に知られることができるように印がつけられるか

いくらかの動物は自分達でその情報を見つけるが、しかし、お互い助け合う協力の例がいくつもある。たいてい、手助けは同種類の動物から来るが、違い種類のものから来ることも可能である。

“つがいとなる相手を見つける”

動物達にとって、視覚的情報はつがいとなる相手を見つける過程で、とても重要な役割を果たすことができる。しばしば、オスがメスよりも色鮮やかで、メスに自分が彼女にふさわしいのだと納得させるために、彼の印象的な外見を利用する。しかし、特に鳥や魚では、その外見が複雑な踊りのような手の込んだ儀式によって補強されている。例えば、カンムリカイツブリのつがいはお互い水上で顔を合わせると、トサカを持ち上げ、上下左右に頭を動かす。

この種の行動は、一度つがいになる相手が突き止められてしまえば、完成する。しかし、出会いが起こりうる前、パートナーは、あるいは鬱葱としたジャングルで、あるいは熱帯雨林の天蓋のなかで、まず初めにお互いを見つけなくてはならない。多くの生物にとって音は大きな役割を果たす。カエルや鳥は遠くまで届くとても大きな音を出すことができる。多くの哺乳類は自らの存在を知らせる特別な鳴き声を持っている。

ふさわしい相手を見つけるためにオスは積極的にメスを探すが、メスはつがいになる準備ができた時には、特別なにおいを放つことでオスが捜すのに協力するだろう。そのにおいにはフェロモンと呼ばれる、相当の距離を越えてオスに見つけられることのできる物質を含んでいる。この過程はガやアリのような虫を含め、多くの動物によって使われている。これは、種の生存を確実にするために使われている、最も強力な技術である。

動物がつがいになって子孫を産む時、彼らは遺伝子情報を受け渡す。遺伝子は完全な生き物を形作るための指令を伝達する、長い化学的な暗号の連なりである。生まれた子供は、半分母親の、そして、半分父親の遺伝子を受け取る。動物がつがいになる時、最も生存率の高い子孫を残せそうな特徴を持ったパートナーを持つことは、好都合なのである。

“植物が相手を求める”

植物は自らの種の存続を確かのものにするために繁殖しなくてはならないが、動物達と違い、彼らは相手を見つけるために動くことはできない。この問題を解決するために、植物は、オスの性細胞を含む花粉を、同種の他の植物に運ばせる、多くの巧妙な手段を発展させてきた。そうして、メスの性細胞が受粉できるのだ。植物は自らの花粉を得る多くの手段を発展させてきた。花粉はオスの性細胞に入っていて、同種の他の植物に運ばれると、メスの性細胞が受精させることができる。

いくらかの植物は、ある花のオスの個体から、別のメスの個体へ花粉を運ぶのに風を頼っている。この仕事を虫たちが行うのを確実にするため、植物はいくつかの手段で自らの存在を知らしめ、ある種の報酬を与えなくてはならない。

色彩は虫にとって、花の内側から採集するのに、甘くて美味しい飲み物が(外見上、無料に見え)手に入る、という事実を宣伝するのによく使われる仕掛けのひとつである。一度虫は花に降り立つと、自らの体へ花粉を拾い上げ、それを次に訪れた花へ渡す。いくつかの花は紫外線に反射し、これはある種類のガにとって魅力的である。

においはもう一つの魅力を虫達に与えている。そのため、いくつかの花はとてもいいにおいがする。花のにおいは人間に喜びを与えるよりも、虫を引きつけるように発達した可能性がはるかに高い。もちろん、それは私達が享受するおこぼれでもあるのだが。

“食べ物を見つける”

ほとんどの動物は生き残るために食べ物を見つけなくてはならない。時には、彼らはそれを他者と分けるのに避けるため、どんな努力も惜しまないだろう。しかし、動物の中には彼らが食べ物を探す中で、協力して、情報を伝えようとするものもいる。

ハチ達は食べ物のある場所についての情報を伝達するとても精密な仕組みを発達させてきた。群れの中で特定の方角で動いている間中、入念に指示された、自らの体をくねらせる踊りを彼らは見せる。この踊りを使い、彼らは他のハチに対しえ太陽を基準として一定の方角のところに美味しい飲み物の豊富に供給される花があることを伝えられる。彼らの動きはまた、どれだけ遠くに供給源があるのかという事も指示する。

“危険な周辺”

多くの動物は危険が訪れたとき、群れの他のメンバーに警告する特別な鳴き声を持っている。これは特に鳥にあてはまり、彼らはとても大きな警戒音の声を発することが出来る。飛行場の近くでは、録音した鳥の警戒音の声が、飛行機を邪魔する恐れのある鳥の群れを追い払うために、よく再生されている。飛行場では、人は鳥を危険とみなす。しかし、鳥にとって飛行機は脅威なのだ。

警告を与えるために、他の動物の警戒音に耳を澄ます動物もいれば、番人が危険を探して、その群れの残りのメンバーに危険を知らせるものもいる。そんな風にして、他のメンバーは安全に食べたり飲んだりすることが出来る。ミーアキャットはこんな感じだ。危険が近づくのを発見するために、彼らはほぼ垂直に立ち上がって、幅広い視野で頭を回転させることが出来るのだ。

“印を残す”

動物は色や動きや音を駆使し、コミュニケーションしようとするかもしれないが、しかし、彼らは時に、もう少し長く残る伝言を残す必要がある。

多くの生物は獰猛に縄張りを守ろうとし、そして、侵入者から自分の区域を守るためにどのようなことでもしようとする。しかし、縄張りを示すために、彼らは何らかの手段でマーキングをしなくてはならない。人はフェンスを設置し、看板をたてる。もちろん、他の動物は縄張りにマーキングする違った方法を必要とする。群を抜いて最も共通しているのは、においによるマーキングである。

人はキレイでいい匂いがするのを好む。それで、なぜそんなに多くの動物が最もにおいのするものを見つけてごろごろ転がることを楽しんでいるように見えるのか、理解するのは難しい、と彼らはしばしば気が付く。しかし、動物にとってにおいは、情報を運ぶ名刺のようなものなのである。

多くの動物は、においの印をつけるために、自分の尿か糞を使う。他のものは特別な腺を体の様々な部分に持っている。鹿の中にはこれらの腺を目の近くに持っているものもいる。彼らは自分の腺を小枝にこすりつけ、他の鹿にとらえられることの可能なにおいの印を残すことが出来るのだ。トラやチーターのような大型のネコ科の動物は、木の幹に自分の尿を吹き付ける。犬や同属の動物は、においを残す肛門腺を持っている。

ガスクロマトグラフィーという技術を使い、科学者は動物のにおいの原因になる化学物質を分析してきた。12種類のそれらの化学物質があり、多岐に渡る情報を全て伝達することができる。それら(の化学物質)は、他の動物に、仲間によって付けけられた印か、それとも、適によるものなのかどうかという事、動物の性別、つがいになる準備ができているかという事、群れの中での“ペッキングオーダー”での順位、そして、その縄張りの主なのか、または、ただ訪れただけなのかという事を伝えることが出来る。

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2007年4月 6日 (金)

Lesson7

人が見えなくなる物語は多く存在する。しかし、目に見えなくなる事は本当に可能なのだろうか。それとも、虚構の中でのみ起こりうるのだろうか。

プラトンの「国家」の中でグラーコンと呼ばれる人物が、自分を見えなくする指輪を見つけた貧しい羊飼いのギュゲスの話をしている。ギュゲスは首都へ行き、王を殺し、そして自らが王になる。グラーコンは自分の姿を消す指輪を見つけてしまったら、誰であってもそれを盗みと殺人のために使うだろうといっている。彼は罰せられるのを恐れているので、人々はただ法を守る、と考えている。

最近の有名な目に見えなくなることについての物語では、趣旨がほんの少しだけ違っている。1897年、イギリス人作家のH・G・ウェルズは「透明人間」という小説を書いた。主人公は自分自身に新しい薬の実験をした若い科学者だ。彼は目に見えなくなり、人々を騙すのを楽しむ。徐々に、彼は精神的に乱れていく。彼は自分を助けてくれる古い友人を殺そうとする。二人は戦い、そして透明人間は殺される。ウェルズの伝えたいことは、ことわざを用いるならば、力は人を腐敗させ、絶対的な力は人を絶対的に腐敗させる、ということのように思われる。

H・G・ウェルズはまた、エイリアンの地球侵略についてや時間旅行についての有名な小説を書いていて、そして、目に見えないというようなそれらの発想は多くのSF小説の中で使われている。アメリカの人気シリーズの「スタートレック」にはロミュラン星人と呼ばれるエイリアンの種族が登場し、彼らは姿を隠す装置を持っていた。この装置を使いロミュラン星人は、彼らの宇宙船を隠し、予告なしに攻撃することが出来た。幸運なことに、彼らは少なくとも自分達の兵器を発射するためには、姿を隠す装置をしっかりと切らなくてはならなかった。

姿を隠す装置を持ったその他のエイリアンは、同名の映画の中のプレデターである。この生物は他の惑星から人間を狩るために南アフリカのジャングルにやってくる。彼の姿を隠す装置は、彼が姿を見られずに人を追う事と攻撃する事を可能にした。人間の主人公に対する最後の戦いで、水の中に落ち攻守の立場が逆転する。エイリアンの姿を隠す装置は故障し、一方で主人公は泥にまみれてエイリアンから見えなくなった。

SF以外でも目に見えないことはまた、魔法の話の中において一般的な発想である。シェイクスピアの「マクベス」のなかで、邪悪な魔女は自らを目に見えなくし、そして彼が晩年に書いた「テンペスト」で、善良な精のエアリアルも姿を隠す力を持っている。ハリーポッターの本の中で主人公は透明になれるマントを与えられるが、そのマントは見た目と感触は水のようで、彼が大きな危険を回避するのを助けるのだ。

プラトンからハリポタまで、目に見えなくなることは奇妙にも強力な発想である。しかし、近いうちにこのアイデアが実現することは可能なのだろうか。人間は自らを目に見えなくすることは本当に出来るのだろうか。

目に見えなくなるために、私達はメラニン(肌の黒色を濃くしたり、薄くしたりする)とヘモグロビンの2つの主要な人間の肌の色素をなくさなくてはならないだろう。メラニンは、太陽光の紫外線から私達を保護するのを助ける。もしあなたが休日日焼けして帰ってくるならば、それはより多くのメラニンを肌に持っているからである。もしあなたにしみ、そばかすがあるならば、それもまたメラニンである。

メラニンは色々な場合、私達にとって便利であるが、生命に関わるものではない。なくても私達は生存できるだろう。他方では、ヘモグロビンは私達がする全ての呼吸に不可欠である。血中のヘモグロビンは肺で酸素と結びついて(赤くなる)、そして体中に酸素を運ぶ。貴重な酸素がそれを必要とする細胞に届けられた時(酸素を失うにつれて青くなる)、ヘモグロビンはもっと酸素をとるために肺に戻る。このために、静脈(心臓へ向かう)は青く、もう一つの動脈(心臓から血液を運ぶ)は赤いのである。

確かに、多くの透き通った深海生物がいて、それどころかヘモグロビンを使わずに酸素を運ぶ、魚の一種「氷魚」さえいる。しかし、自分を透明にするのは私達人間には決して出来ないように思われる。私達はカラフルなヘモグロビン無しでは生きられないのだ。

それなら、もしウェルズのような化学的方法が不可能で、また魔法も認めないならば、何かの隠す装置が私達が見えなくなる唯一の手段のようだ。当然、軍隊はこの発想に大変興味を持っている。それは完璧な迷彩服だろう。アメリカの「透明兵士」と呼ばれる研究計画では、色を変えられる一種の毛布かポンチョのようなものを作ろうとしている。緑色の森では緑色になるだろう。砂だらけの砂漠では黄色になるだろう。センサーや携帯コンピュータを使いながら、この種の自発的な迷彩服は、兵士の動きに伴い、タコの表面のように色を変えるだろう。または、もしある兵士が見てもらいたいならば、自発的な迷彩服は逆に働くことが出来る。救出を待つ傷ついた兵士は、自分の迷彩服をまぶしいオレンジ色をぴかっと光らせるように設定することが出来るだろう、一例を挙げるならば。

自発的な迷彩服の一つの問題点は動力である。液晶画面のついた携帯コンピュータを考えてみなさい。さて、画面があなたの周りを全て包むのに十分な大きさのしなやかな毛布であると想像しよう。ある兵士が何ヶ月も、あるいは何週間もずっと戦場にいたとしても、今の時点ではバッテリーはほんの数分しか動力を供給できないだろう。

もう一つ別の問題は有効範囲である。あなたがレンガの壁から10mのところに立っているのを想像してみよう。その距離では、レンガの間の線はあまり人目を引かず、そうして単純な赤茶色のカモフラージュはたぶん成功するだろう。しかし5mなら、この単純なカモフラージュはおそらく失敗するだろう。そのカモフラージュが始まるところで、レンガの間の線が途切れるのはとても目立つだろう。

3つ目に、液晶画面は熱を発する。毛布大の画面は、それにいくつかの新たな表示技術を使わない限り、発する熱のせいで赤外線センサーによって着用者の姿を丸見えにさせてしまうだろう。

しかし、これらの問題は全て解決できるようにみえる。より良いバッテリー、小さくて処理が早いコンピューター、熱を発しないで作動するディスプレーはいつか全て解決できるだろう。30~50年後、その時、透明兵士―そして、目に見えない戦車や戦艦や戦闘機―は実現するのだろうか。目に見えない銀行強盗は、人々が家に帰るまで銀行の中で簡単に待っていられるだろうか。目に見えない暗殺者は、総理大臣官邸か大統領執務室にこっそり入れて、そしてまた、見られないでこっそり行ってしまうことが出来るのだろうか。

そんな発想は現実離れした世界のもののように思えるかも知れないが、しかし、アーサー・C・クラーク曰く「全ての十分に発達された技術は、魔術と見分けがつかない」。おそらく、私達は皆、透明人間を警戒した方がいいのかも知れない!

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2006年11月28日 (火)

Lesson 6 [完全版]

私達の小さな惑星は様々な種が一緒に雑然と住んでいるのではないということを、生態学は私達が悟るのを手助けしている。人間を含める全ての動植物は微妙に調整されたバランスの下で共存するように進化してきた。しかし、そのバランスはいとも簡単に崩れてしまうのだ。ますます多くの人がそのメッセージを理解し始めている。彼らは環境にやさしくなるように自分達の生活を適合させようとしていて、彼らは政府に対しても同様のことをして欲しいと思っている。その結果、いわゆる環境保護政策が増加してきた。そして人々は環境破壊的行動を止め、自然の残っている場所を守り、政府を説得して環境のためにもっと行動させるために自分達が出来ることは何でもやろうとしている。世界中の政治家達が環境保護政策を支持し、同政策を採用していると言っている。

けれどもたいていの場合、彼らの考えは視野が狭く短期的だ。彼らは人々の健康を守り、町を住むのにより快適な場所にすることに関心がある。我々の惑星に影響する大問題に取り組むためにほとんど何もやっていない、温室効果や砂漠化の拡張などの。

生き方を変える

もし人間が生き延びようと思うなら、私達は生活様式を可能にしている自然の富を守る必要がある。私達は未来を見つめなければならない。たった何年かだけでなく、数千年にわたってである。そして私達の行動が確実に環境に損害を与えないようにするためにエコロジーの知識を利用しなくてはならない。それは私達の生活様式を大きく変えることを意味するだろう、特に産業国家にとっては。私達はもっと多くの天然資源を再利用する必要があるだろう。そして、今よりはるかにムダを減らす必要があるだろう。石炭や石油という限りある資源を保持して汚染を減らすために、我々はより綺麗なエネルギー源を使い、より大切にエネルギーを使い、私達は本当にそんなに多くのエネルギーを使う必要があるのかどうか疑う必要があるだろう。

科学者達は動植物が生きるのに必要な環境を維持するために、彼ら自身が重要な役割を持っていることを知りつつある。

例えば光合成において、植物は二酸化炭素を吸収し、酸素を出す。そして、その酸素を動物達は呼吸するのに必要とする。

それ故にただ生きることだけで、動植物は生命が依存して大気中の気体のバランスを制御している。これらのガスまたは自然の温室効果が生き物によって必要とされる範囲の気温を保つことを可能としている。

生物は環境に対する別の影響を持っている。葉からの蒸発は空気中の湿度を保ち、一方で枯死した植物は土壌を作るのに役立つ。養分は絶えず地中の動物にかき混ぜられ、そして動物達の糞で土の表面に撒き散らされる。

ちょうど家庭のサーモスタットが寒くなりすぎたときにヒーターのスイッチを入れるのと同じように、地球上の生物のための状態を維持する微妙な均衡をはかる働きをこれらの自然の過程が可能にしている。科学者達はもっと驚くべきコールタールの仕組みがあるかもしれないと考えた彼らは海中の小さな藻が海と陸地の温度を調整するのに役立っていると考えている。硫化ジメチルという気体をその藻が精製し、大気中に大気中に上昇し日光と反応を起こし微粒子を形成する。これらの微粒子が湿気を吸収し、水の小さな雫を形作る。雲の中にこれらの水を多く含むとより白くなり、より多くの陽光をはね返し宇宙に戻す。

科学者達はこの藻と雲の間の連携が惑星の感度の良い調整器としての役割を果たしているかもしれないと考えている。大気中に多量の水滴が出来ると、もっと多くの陽光が反射され地表の温度がわずかに下がるだろう。しかしこのように温度が下がると、藻が発生させる硫化ジメチルは減り、そのため大気中に出来る水滴も減る。雲の間を通る陽光が増え、海水温が上がりバランスを元に戻す。

従って、地球の温度はトカゲが日光浴をして暖まり日陰で体を冷ますことが出来るのと同じように、ほとんど制御されているのかもしれない。その上、血液がトカゲの体内で栄養を運ぶのと同じように、水が養分を惑星の至るところに運ぶ。

従って、この惑星は殆どそれ自体が生物であるかのように振舞っている。ジェイムズ・ラブロックという科学者はこの惑星を“ガイア”と呼んでいる、ギリシャ神話の母なる大地の女神に因んで。

この“ガイア説”は完全に真実であるということを意図されたものではない。しかし、それは私達が地球をどのように扱うべきかについて考えるのを助けてくれる。私達は全ての動植物のように地球の一部なのだ。“ガイア説”は私達に、もし私達が損害を与えれば、私達がまた私達自身に損害を与えているということを思い出させる。

私達は生活のスタイルを変え、移動することがそんなに必要でなくなるようにする必要があるだろう。製品の価値を定めるときに、私達はその製品の製造時に生じた汚染を洗浄するためのと、それらを後で安全に処理するためにかかっただけの本当の費用を付け足す必要があるだろう。

農家は多くのエネルギーを要する化学製品の代わりに自然の肥料を使う必要があるだろう。私達は毒を害虫の蔓延を防ぐ自然の方法に変える必要があるだろう。そして私達が害虫の繁茂する不自然な状況を作り出したから彼らが害虫になったのだということを忘れてはならない。

全ての中で最も重要なことは、どれだけ多くの人をこの惑星が扶養できるのかを考える必要があるだろう。人口は最も貧しい国で最も早く増加しつつある。そこでは、大家族は将来に対する安全確保を意味している。私達が大家族を求めさせる貧困や不当労働条件の問題を克服してはじめて私達は人口増加を制限できるだろう。

将来に合わせる

要するに、私達は持続可能的に生きることが出来るようにならねばならない、すなわち環境を損なうことなく永久に生き続ける得る方法でだ。1992年、リオデジャネイロでの地球サミットで、世界の政府が“持続可能な発展を成し遂げ、全人類に対する質の高い生活”を約束する宣言書に署名した。持続可能な発展は、将来の人々の可能性を損なうことなく、今日私達が必要な全てのものを手に入れなくてはならない。

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2006年11月 3日 (金)

Lesson5 [完全版]

まさに最初の写真の動く動画は1893年に撮られた。その題名は「フレッド・オッヅのくしゃみ」で、くしゃみをしている(フレッド・オッヅという)男を映していた。オッヅ氏は高給取りのスターではなかった。それどころか、彼は俳優ですらなかった。彼はアメリカの有名な発明家トーマス・アルバ・エジソン(1847~1931)の助手で、彼はまた白熱電球、電車など1000を超える特許品を発明するのを手伝った。

その最初の写真の動く動画、すなわち、映画から一世紀以上が経ち、今映画製作は国際的な巨大な産業だ。成功した映画は何億ドルも稼ぐことが出来る。さらに重要なことには、映画はおそらく現代の文化において単独で最も強力な影響力を持っているだろう。映画は新しい考えを取り上げる―クローン技術、人工知能、宇宙旅行のような―そして、それらを劇的な心に残る方法で探求する。彼らは重要な出来事や様々な生き方を取り上げ、私たちが見聞きできる形で提供してくれる―リアルなものとして。

もちろん、映画はしばしば娯楽的価値のために事実を曲げることがある。しかし、このことはその(影響)力を増すだけである。アメリカ、インドや日本に行ったことの無い人々はそれらの国のイメージをテレビや新聞からよりもずっと、見たことのある映画から得ている。知的ロボットや宇宙人(ギャングやスパイ)に会ったことが無い人々はそれがどのようなものなのか映画の中で見たものに基づいて想像する。映画はスクリーンで動いているだけでなく、我々を感動させるばかりか、様々なことを考えさせるのだ。

しかし、もちろん”映画”は実際には全く動かない。映画は一連のスチール写真を含んでいる細長いフィルムである。映画は我々を騙して動きの無いところに動きを見せる。そしてこれは我々の視覚システムの2つの特徴のため起きるのだ―残像効果とファイ現象の2つだ。映画の全体的な力は錯覚に基づいている。

そのトリックはよく知られていた、エジソンが映画のカメラを発明するずっと前に。視覚を利用した最も初期の玩具は「ソウマトロープ」だった。カードが速く回転させられると、その両側の絵が一つに合わさって見える:鳥が鳥籠の中にぶちこまれているように見える。

「ファンタスコープ」は同じ考えのもっと手のこんだバージョンのものである。見る人が細い穴から覗きディスクが回転すると、描かれている人物が踊るように見えるのだ。

「ゾウイトロープ」は平らな円盤ではなくて、回転している円筒に内側に画像を置く:円筒が大きければ大きい程、一連の動きが(そのぶん)長くなる。

どうやって錯覚は作用するのだろうか?我々がものを見る時、網膜と呼ばれる目の中の神経の被膜に光の模様が当たる。網膜はその神経にふりかかる光を処理し、信号を脳へ送る。しかし、これには時間がかかる。網膜が仕事をしている時、それにかかる光は変わるかもしれない。出来る限り速く、その新しいパターンを処理し、脳に新しい信号を送り始める。しかし、網膜にとってあまりにも速く何かが起こると、脳は全くそのことを感知できない。少なくとも意識の上では分らない。例えば、テレビの番組中に非常に短い間に映像をちらりと見せることが出来る。視聴者は何が起こったのか分らない。しかし、人はその映像に影響されるようである―”サブリミナル広告”に実際に使われてきた事実である。

実際には消えてしまった何かを見続けているかのように見える。しかし、これだけでは動きの錯覚を説明していない。映画は我々の見方に関する不思議なもう一つの事実に依存している。

脳は脳が関連があると判断する2つの情報の間の隙間を埋めようとする傾向がある。事実上、もしその2つの情報が関連しているように見えれば、脳は自動的により関連があるように見せる。例えば、我々は皆沢山の電球から成る飾りつけを見たことがある。電球は動かないが、ただ単にスイッチが入ったり切れたりするだけだ。しかし、我われには動いて見える。もし、隣り合う2つの電球が交代で点いたり消えたりしたら、我々は二つの電球が点いたり消えたりしているようには見えない。我々は一つの光が前後左右に動いているように見える。脳によって行われる”隙間ふさぎ”はファイ現象と呼ばれている。

従って、映画が似通っている2枚の静止画を次から次へと見せると、残像のために、画像の黒い枠があったこと、そしてそれがスクリーン上に横たわっていたことを我々は気付かない。そのファイ現象のおかげで我々はこの似通った絵が一つの動画に見える。

しかし、上で述べられた視覚を利用した玩具の絵は描かれたものだった。どのようにして我々はこれらの玩具から映画製作という極めて真剣なビジネスに進んだのだろうか。その答えは簡単だ。絵が写真に取って代わられたのだ。

19世紀に写真は発明され発達した。多くの写真家達は建物や風景、あるいは動かずに座っていたり、立っていたりする人を撮ることに満足していた。しかし、中には動いているものを撮りたがる人達もいた。例えば、ギャロップにおける馬の足がどのように動くかを正確に知っている人は一人もおらず、写真家の中には自分達の新しい趣味(あるいは芸術)によってそれを知ることが出来るだろうと思っているものもいた。先駆け的な写真家、エドワード・マイブリッヂ(1830~1904)は、素早く連続する一連の写真を撮る技術を学んだ。1877年、彼は競馬場の走路の脇に、ワイヤーが走路を横切るように12台のカメラを設置した。その結果、馬の蹄が12台のカメラを連続して作動させた。マイブリッヂの写真はギャロップ時においては馬の足すべてが同時に地面から離れる瞬間があるということを証明した。

このような写真はカードの上か本の中に印刷することが出来て、そして見る人がカードやページをパラパラめくると、馬そのものが再び走る様に見えた。リュミエル兄弟によって初めて映画が公開された時、それは、列車が駅に入ってくる場面だったが、観客の多くはパニックに陥った。彼らは本物の汽車が、今にもスクリーンから飛び出して、彼らにぶつかると思ったのだ。

従って映画においては、写真の現実性が現実の世界―うねる波、漂う雲、落ちる葉―を択えるために、視覚的な玩具の魔術が結合し、それを繰り返し見せてくれる。我々が見るものは固定しておらず、不動でなく、死んでいるものではなく、動き、生きているものなのだ。

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2006年7月 7日 (金)

Lesson4 Ignaz Semmelweis - Doctor Death

1840年代、謎の殺し屋がウィーンの病院の廊下をうろついていました。多くの女性や赤ん坊が亡くなり、次が誰の番なのか誰も分かりませんでした。手本のような調査を進めていく中で、ハンガリー人の医者、イグナーツ・ゼンメルヴァイスはその殺し屋を見つけ、こんにちでも依然として極めて重要である教訓を私達に教えてくれたのです。

 イグナーツ・ゼンメルヴァイスは、1818年、ブダ市に生まれました。(ハンガリーの現在の首都であるブダペストは、ブダとペストの二つの古い都市から成り立っているのです。ブダの方が小さい市で、ドナウ川の西の丘の上につくられているのです。ペスト市は川の東の低い平地に位置していて、ゼンメルヴァイスの時代には時々ドナウ川の洪水に見舞われたのです。)ゼンメルヴァイスは最初にペストの大学に行き、次にウィーンの大学に行きました。彼は1844年大学を卒業して医者になりました。専攻は出産の学問である産科学でした。
 その当時、ヨーロッパの大抵の女性は家で出産しました。しかし、家で自分たちを助ける人が誰もいない人々や、特別な医学的な手助けを必要とする人々は、赤ん坊を生むために病院に行ったのです。不幸にもこのような女性の多くは産褥熱と呼ばれる病気にかかり、大勢が亡くなったのです。いくつかの病院では赤ん坊を生むために入院した女性の4分の1もの人々が産褥熱で亡くなったのです。
 その病気は全くの謎でした。何が病気の原因なのか誰も知りませんでした。そして、病気の予防や治療の仕方を知っている人は誰もいませんでした。ゼンメルヴァイスやウィーン総合病院の上司を含めた多くの医者が、産褥熱は出産に伴う通常の危険の一つに過ぎないと信じていたのです。それを防ぐために医者が出来ることは何もない、と彼らは考えていました。
 ゼンメルヴァイスの病院では、出産のための2つの部、第一産科部と第二産科部がありました。ゼンメルヴァイスは第一産科部に勤務していて、第二産科部よりもはるかに産褥熱の状態が悪いことを知って悲しく思ったのです。1844年、第一産科部の3157人の母親のうち、260人が産褥熱で亡くなりました。それは8.2%にあたる。次の2年間、第一産科部の数字は6.8%、11.4%でした。しかしながら、同じ3カ年に渡る第二産科部の数字は2.3%、2.0%、2.7%でした。もし、産褥熱が出産に伴う「通常の危険」に過ぎなかったのなら、なぜ第一産科部の方がはるかにひどい状態なのでしょうか。ゼンメルヴァイスは第一産科部でなにが問題なのか解明しようと決心しました。
1つの説はよく分からない伝染病が原因だ、というものでした。ゼンメルヴァイスはすぐにこの考えを拒否しました。なぜ、これらのよく分からない伝染病の影響が病院の外よりも病院の中の方が強いのでしょうか。(産褥熱はウィーン全体としては非常に稀だったのです。)なぜ、第二産科部よりも第一産科部の方が産褥熱の勢いが強いのでしょうか。本当の伝染病ならそれほど選り好みしないはずです。
もう1つの説は過密に原因があるというものでした。しかし、ゼンメルヴァイスは第二産科部の方が第一よりも混雑しているという事実を指摘したのです。なぜなら、患者は悪名高い第一産科部を必死になって避けようとしたからです。食事もまたその原因ではありえないのです。2つの部の患者は同じ食べ物を与えられていたのです。
 その原因は心理的なものである、と考えた人々もいました。患者が死にそうになっている時、牧師が呼ばれるのです。そして、牧師には助手がいて、死にそうな人の所に歩いて行って、鐘を鳴らしたのです。病院の設計が原因で、牧師は死にそうな人が入れられた病室に行くために第二ではなく第一産科部を通らなければならなかったのです。だから鐘の音とそれが引き起こす死の思いから、第一産科部の女性のほうが産褥熱にかかりやすいのだと考えられたのです。
 ゼンメルヴァイスはこの考えを試す手筈を整えました。彼は牧師を説得して鐘を鳴らすのをやめてもらい、第一産科部を避けて病室まで遠回りをするようにしてもらったのです。あいにく、産褥熱にかかる率は高いままだったのです。
 ついに1847年の初め、ある事故によってゼンメルヴァイスは必要とする手掛かりを得たのです。別の医者と1人の学生が死体を調べていて、学生のメスが誤って医者の指を切ってしまったのです。その医者は結局亡くなったのですが、ゼンメルヴァイスが産褥熱で亡くなった女性に見てきた同じ症状の多くを示したのです。
 ゼンメルヴァイスは、学生のメスによって何等かの「死の物質」が医者の血流に入り、それが一種の毒として作用したのだと推測しました。おそらく産褥熱もまた、一種の敗血症ではないのだろうか。
 その当時、医者や医学生が死体の検査から直接、生きている患者の世話に行くのは普通だったのです。彼らは大抵確かに手を洗ったのですが、徹底的に洗うことはなかったのです。そして彼らの手は悪臭を放つことが多かったのです。ゼンメルヴァイスは新しい理論をはっきりと試す機会を設定しました。彼はすべての医学生に死体を検査した後特別な液体に手を浸して洗うように命令したのです。産褥熱の症例はすぐに下がり始め、1848年には第一産科部の発生率はわずか1.27%だったのです。200以上もの生命が救われたのです。
 ゼンメルヴァイスの理論はすべての事実を説明できるのでしょうか。第二産科部の患者は、助産婦によって面倒を見られていました。そして彼女らは死体と共に働くことはなかったのです。第一産科部の患者は医者と医学生によって面倒を見られていました。従って、ゼンメルヴァイスの理論は第一と第二の違いを非常にうまく説明してくれたのです。
もう1つの奇妙な事実がありました。それは産褥熱で死んだ赤ん坊は、出産の前にその病気にかかった母親から生まれたのが普通であったということなのです。生まれた後で母親がその病気にかかった赤ん坊は大抵、生き残ったのです。ゼンメルヴァイスの理論はこの事実をも説明したのです。彼は、その病気は血液を通じて母から子供へ伝えられるのだと言ったのです。
 おそらくゼンメルヴァイスの考えは現在の私達にとって明らかなように見えるのです。しかし、その当時この考え方は非常に奇妙で新しいものに見えたのです。ゼンメルヴァイスの上司は強く彼の考えに反対し、ゼンメルヴァイスはまもなくウィーンを去ってペストに戻りました。彼の考えはハンガリーと若いオーストリア人の医師の間で受けいれられましたが、大抵の権威筋は拒絶しました。彼は母親や赤ん坊が不必要に死ぬことに対して憂鬱な気持ちになり、そして1865年には彼はすっかり健康を害してしまったのです。
しかし同じ年、ジョゼフ・リスターはゼンメルヴァイスの考えを事故や外科の手術によって開いた傷口に応用し、これによってより多くの生命が救われたのです。リスターはゼンメルヴァイスについて次のように言っています。「私は大いなる称賛の気持ちを持って彼とその業績について考えざるを得ないのです。そして、最後に彼が当然受けるべき尊敬を得られたことを思うと、私は喜びで胸が一杯になるのです。」もちろん、こんにちではみんな医者や病院はことの他、綺麗でなければならない、ということを受け入れているのです。
 しかし、この物語から学ぶべきもう一つの教訓があるのです。ゼンメルヴァイスは医学において、科学的な研究をどのように行うか私達に教えてくれたのです。彼は注意深く可能な原因をすべて挙げ、知られている事実や注意深く計画された実験に照らし合わせて1つずつこれらを検証したのです。明瞭な思考や組織的な方法により、彼は混乱や無知、偏見を乗り越えて、何千人もの女性を殺した真の殺し屋のところにたどり着いたのです。しかし、その殺し屋が自分自身であったことが分かったときの彼の驚きを想像して御覧なさい。

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Lesson3 Bus Boycott in Montgomery

マーティン・ルーサー・キングはジョージア州の首都であるアトランタで生まれました。その当時、ジョージア州は黒人と白人を別々にしようとしていました。彼らの標語は「別々しかし平等」。これは、黒人の子供達が違う学校に行くことを意味しました。彼らの両親は街の違う場所に住み、違うレストランで食べ、違う映画館で古い映画を見ました。マーティン・ルーサー・キングは成長してその全てを変えました。
 彼が高校生だった時、マーティン・ルーサー・キングは学校へ行くのに毎日バスに乗らなければなりませんでした。しかし、その当時、黒人はバスの前の方の席に座ることを許されていませんでした。彼らは後ろの席に座らなければなりませんでした。後に彼は回想しました。「私は自分の体と共にあのバスの後ろへ行かなければならなかった。しかし、私がバスに乗る度にいつも、前の方の席へ心を残していった。」
 14歳の時に、彼は別の市のスピーチコンテストで優勝しました。彼が家に帰る途中、彼と彼の先生はバスの席を無理矢理白人に譲らされました。彼らは140km以上も通路に立っていなければなりませんでした。彼は言いました。「あの夜は決して私の記憶から去ることはないだろう。私はその時ほど怒ったことはない。」
 キングが優秀な生徒で、生まれながらのリーダーであることは明らかでした。彼は医者か弁護士になることを考えましたが、最後に彼は父のように牧師になることを決心しました。1955年、キングが26歳の時に、彼はアラバマ州の首都であるモントゴメリーにあるパブティスト教会の牧師になりました。その年の12月、ある黒人女性ローザ・パークス夫人が、白人にバスの席を譲るのを拒否したという理由で警察に逮捕されました。その後に続く抗議運動のリーダーとしてマーティン・ルーサー・キングは世界的に有名になりました。
 パークス夫人は12月1日に逮捕されました。その次の日、地元の黒人社会の指導者が会合を開いて、12月5日、つまりパークス夫人の裁判の日にバスの不乗車運動をすることを決めました。モントゴメリー市内のバスの利用者のうち、約70%は黒人が占めていたのです。もし、黒人達が彼らの指導者のアドバイス、「仕事、街、学校、その他どこへ行くのにもバスには乗るな。タクシーに乗るか、車に相乗りをするか、もしくは歩け。」に従えば、これはバス会社にとっては深刻な打撃となるでしょう。パークス夫人は、市の人種隔離法に違反したとして有罪になり、10ドルの罰金を科せられました。しかし、ボイコットは大成功でした。普通なら黒人でいっぱいになるバスが、12月5日には空っぽだったのです。
 同じ日の夕方、大規模な集会がありました。何千人もの黒人達が正義と平等のために戦おうと堅く決意して会議にやってきました。そこで新たな組織「モントゴメリー改善協会」が作られ、マーティン・ルーサー・キングはその代表に選ばれた。そしてバス会社が黒人と白人を平等に扱うまで、バスの利用をボイコットすることに全員が同意しました。
 それから一週間以内に、MIAは約300台の車を集めて乗り合いグループを組織し、学校や仕事場への送り迎えをしました。たくさんの人々が歩き、そして歩くことそのものが抗議の表明になりました。ある時、乗り合いグループの運転手が明らかにつらそうに歩いている老婆の脇に止まりました。
「乗りなよ。婆さん。」運転手は言いました。「歩く必要なんかないよ。」
彼女は運転手に対して先に行けと手を振りました。「私は自分のために歩いているんじゃないよ。」と彼女は説明しました。「私は自分の子供や孫のために歩いているんだ。」

マーティン・ルーサー・キングは、抵抗運動は非暴力でなければならない、と何度も言いました。彼は聖職者として、キリスト教徒は自分達の敵を愛さなければならないというイエスの教えを信仰していたのです。キング達は、インドにおけるイギリス支配に対して行われていた、マハトマ・ガンジーの非暴力運動にも影響されました。人々が彼についての嘘の噂を流したり、もしくはキングは悪いリーダーだと自分の友達を説得しようとしたりした時は、キングは当然ながら腹を立てました。しかし彼は、自分自身に言いました。「敵の怒りに耐えなければならない、それでいて怒りを返してはいけない。どんなに敵が感情的になっても、お前は冷静でなければならない。」
 1956年1月の終わり頃、警察は交通違反で乗り合いグループの運転手達を逮捕し始めました。キング自身も、制限速度25マイルのところを時速30マイルで走ったとして逮捕されました。彼は一晩監獄に入れられましたが、そこでも人種隔離がありました。キングは白人の囚人とではなく、黒人の囚人と一緒に監禁されました。
 同時に、キングは30か40の脅迫電話や手紙を毎日受けていました。彼を殺害する計画の噂もありました。そして1月30日に誰かが彼の家に爆弾を投げました。キング自身は会議で外出していましたが、奥さんと幼い娘はそこにいました。大勢の怒ったMIAの支持者たちが家の周りに集まりましたが、奥さんと娘が無事だと分かった後、キングは彼らに言いました。
「私達は法と秩序を信じている。武器は手に取るな。剣に生きるものは剣に滅ぶ。私達は敵を愛したいと思う。」
 2月になると、警察は100人を超えるMIAの支持者達を、ボイコットを禁止する古い州法に違反したとして訴えました。彼らのリーダーとしてマーティン・ルーサー・キングは3月22日に裁判にかけられ、そして有罪にされました。この事件は最高裁判所に上告され、1956年の11月、モントゴメリーでのバスのボイコットが続いている中で、バスの人種隔離はアメリカの憲法に違反しているという判断が下されました。マーティン・ルーサー・キングは、これは「白人に対する勝利」ではなく、「正義と民主主義のための勝利」だと主張しました。彼は黒人たちにまたバスを利用して「敵が味方に変わるくらい愛情深くなるよう」促しました。
 自伝の中で、キング牧師はモントゴメリーのボイコット運動を「アメリカの黒人にとっての心理的な転換点」と呼んでいます。そのボイコット運動は、よく組織された非暴力的な方法で力を合わせることによって、黒人たちは成功することができるのだということを明らかにしました。この事件は、彼らの主張は正しいというメッセージを国全体に送ったのです。

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2006年5月26日 (金)

Lesson2 A Document for All People

自分の部屋で、トマス・ジェファーソンは窓のそばに腰掛け、自分がすることに同意したすごい仕事について考え始めていました。「私は、そのような重要な文書を書くのにふさわしい男なのだろうか。」と彼は思いました。
 こんにちでは、われわれはみんなトマス・ジェファーソンについて知っています。彼はアメリカの最初の偉大な思想家の1人でした。作家、発明家、政治家そして建築家として、彼は身の回りで形成されつつあった科学や政府に関する新しい考え方を探求したのです。
 彼がアメリカの大統領になったことは、皆知っています。そして現在、ほとんどの人が彼が独立宣言を書いたことを知っています。しかし、彼が人生で最大の難問を目の前にして自分の部屋で1人で座っていたとき、この若者がその日の午後どのように感じていたか、私たちはわざわざ考えようとすることは滅多にないのです。
 議会は、トマス・ジェファーソンに独立宣言を書くために2週間与えました。彼らは、今後アメリカ人は決してイギリスの法律に従わないということを彼に明言してほしかったのです。この文書で、植民地は自らの独立を宣言することになっていたのです。アメリカ人は自らを統治することになるのです。
 これだけでも大変な仕事でした。しかしトマスは、自分に対してもっと難しい目標を課したのです。彼は、アメリカが自由になると単に宣言するだけでは、充分ではないと感じていました。彼は、新しい国を導く新たな考え、つまりアメリカ人だけでなくすべての人が自由の権利を持っているという考えを説明したかったのです。
 トマスは、ウィリアムズバーグで学生だったときに、個人の自由の概念をはじめて学んだのです。彼は、万人が持っているいくつかの権利があるということを学んだのです。生きる権利、自分で選択できる権利、他人を傷つけない限り望むことを自由にする権利などです。現在私たちはこのような考え方を当然と考えています。しかしそれらは、1770年代かなり新しいものだったのです。すべての人がそれらを良いと思ったわけではありませんでした。あるいは、それらについて大して考えることさえしなかったのです。しかしトマス・ジェファーソンは考えたのです。先生たちは、トマスが最も思慮深い学生だと言ったのです。
 アメリカを治めるイギリスの支配者が、入植者たちに個人の基本的な権利を与えていないということをトマスは知っていました。アメリカ人たちは、自らを統治すること、自分たちで税金を課すこと、あるいは自分たちを守ることが許されていませんでした。毎年、このような考えをめぐるイギリスと植民地の論争がますます深刻になりました。
 アメリカ人は、自分たちの法律をつくりたいと思いました。あるいは、少なくとも自分たちを支配するイギリス政府で何らかの発言権を持ちたいと思ったのです。国王のジョージ3世は、その可能性さえ考えようとしませんでした。入植者たちは、自由のために戦わなければならないでしょう。今や、アメリカが独立を目指して最初の、そしてとても大胆な1歩を踏み出すのは、バージニア植民地のトマス・ジェファーソンの肩にかかっていたのです。
 トマスが日に照らされたフィラデルフィアの街を座って窓から眺めていたとき、彼の考えはまとまりませんでした。彼は宣言文を書くことに集中しようとしました。しかし、家族に対する心配事が彼に気をそらしたのです。彼は、遥か遠いバージニアにいる愛しい妻のマーサのことをあれこれ考えました。彼女はとても具合が悪く、家族からの手紙が彼のもとに届くのに、1週間かあるいはそれ以上かかったのです。彼女は回復したのだろうか。彼女は悪くなったのだろうか。マーサについてあれこれ考えると、彼はほとんど気が狂いそうになりました。トマスはまた母のことも考えていました。彼女は3ヶ月ほど前に亡くなったばかりでした。彼は、母が亡くなったことで悲しみで胸がいっぱいでした。
 トマスはペンを下に置き、椅子に深くもたれました。外では通りは人でいっぱいでした。男たちは肩で材木を運んでいます。女性は日光から顔を守るためにフリルの付いた傘を差して散歩しています。汚い顔をした子供たちが、市場を駆け回っています。
 トマス・ジェファーソンは、緑豊かなバージニアの田舎で過ごした少年時代を思い出しました。少年の頃、彼が荒野のまさにはずれで暮らしていたとき、人生はどんなに違っていたことでしょうか。とんでもない少年時代の夢においても、成り行き上自分が重大な時を迎えるとは彼はかつて想像したことがあったでしょうか。

 翌朝トマスは仕事の用意をしました。彼は特別につくった書き物机を組み立てました。彼はいつもこれを持ち歩いていました。それは閉まっているときは本のように見えました。しかし、天板は開いて持ち上がり、机の表になったのです。中には、ペンやインク、砂の入った引き出しがありました。ペンはガチョウの羽でできていました。人々はペンの先をインクに浸して書いたのです。インクは乾くのに時間がかかったので、砂が余分のインクを吸うように、書き終わったときに紙の上に砂をかけなければならなかったのです。
 トマスは立ったまま書くのが好きでした。そのほうがよく考えられる、と彼は言ったのです。そこで彼は、小さな机に向かって立ち、ペンやインクを整え、すぐそばに砂の入った小さな箱を置いたのです。それから彼は1枚の紙を取り出し、机の上に平らに伸ばしました。
 彼は今朝は気分が良かったのです。彼は自分が書きたいことを知っていました。そして、自分にはそれができると知っていました。彼は、かつて父親が荒野を探検しているときの冒険について話してくれた物語を思い出しました。彼は今まさに、冒険に乗り出そうとしていたのです。実際、国中がそうだったのです。
 彼はペンをインクに浸し書き始めました。
 しばらくして、彼は書くのをやめてこれまで書いたものを読み返しました。そして、箱から砂を取り出し、紙の上にまいたのです。彼はしばらくの間そのままにしておいて、それから砂を吹き飛ばしました。
 ここまではうまくいっている。彼は満足していました。宣言文は力強いものでなければならない。しかしまた、感動的で美しいものでなければならない。表現は人々を勇気付けるものでなければならない。トマスは、宣言文が、本にファイルされ、忘れられてしまう単なる公文書以上のものであってほしいと願っていました。彼は、人々が長い間忘れないようなものを書きたかったのです。しかも、アメリカ人のためだけでなく、万人のために書かれなければならないのです。
 そこで彼は、アメリカで起きていることはどこでも起こりうるということを、まず初めに書いたのです。それから、彼はアメリカの状況に移り、人々の権利、つまり万人が持つ資格のある基本的な人権が守られていないのでアメリカは独立しなければならない、と述べたのです。
 トマス・ジェファーソンは、万人が平等であり、誰でも他の人よりもよく扱われるべきではない、ということを他の何よりも強く信じていたのです。そして、奪い取ることのできないいくつかの権利があったのです。当然のことながら、誰でも生きる権利があったのです。しかし、それが全てではありませんでした。人にはまた、自由の権利があったのです。つまり、自分の行動が第三者の自由を損なわない限り、自由に自分が望むことを考え、行う権利なのです。最後に、人々には幸福になる権利と、自分を幸福にすることを行う権利があったのです。
 このような基本的な人権を守るにはたった1つの手段しかない、とジェファーソンは考えました。政府は国民から権力を得るべきであって、その逆であってはならないのです。そこで彼は、アメリカ人はイギリスから自由になるだけでなく、国民が自ら責任を負うようにするために政府を樹立するつもりである、ということを力強く宣言したのです。
 ジェファーソンの独立宣言書は今や、政府についての新しい概念としてだけでなく、人間個人についての新しい概念として世界中で受け入れられているのです。

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Lesson1 The Mystery of the Mary Celeste

1872年11月7日、1隻の小さな帆船がイタリアのジェノヴァに1700樽の生アルコールを運ぶためにニューヨークを出発しました。乗船していたのは船長のベンジャミン・ブリグス、妻のサラ、2歳の娘のソフィア、そして7人の乗組員でした。船は全長33mで、およそ6か月分の食料と水を積んでいました。船の名前はメアリーセレスト号でした。
 5週間後、メアリーセレスト号は見捨てられ、外洋を漂流しているところを発見されました。船長とその家族、乗組員の姿はどこにも見つかりませんでした。メアリーセレスト号は幽霊船だったのです。
 あちこちに軽い損傷の後がありました。そして船倉には水がありました。しかし積荷は無事で、船は完全に航行可能でした。船長とその家族、そして乗組員があまりにも急に姿を消したという形跡も見られたのです。船乗りたちは、防水コートやパイプをとる時間さえありませんでした。誰かが1さじのせき止めの薬を飲み、コルクの栓をビンに戻す時間もなかったのです。ブリグス船長、サラ、ソフィア、そして船の乗組員たちに何が起きたのでしょうか。
 一説には、船は巨大なイカ、つまり海の怪物によって攻撃されたのだといわれています。しかし、船のクロノメーター、六分儀、そして書類もまた消えていたのです。海の怪物はこれらを欲しがったのでしょうか。
 別の説では、争いがあったのだといわれています。赤い染みの付いた剣が発見されたのです。おそらく、乗組員が反乱を起こし、船長とその家族を殺し、船の小さな救命ボートに乗って逃げたのでしょう。そしてそのとき、航行するために一緒にクロノメーターと六分儀を持っていったのでしょう。しかし、赤いしみは血ではなくクエン酸鉄だったのです。剣はレモンで磨かれていました。さらに重要なことに、ベンジャミン・ブリグスは公平で尊敬される船長でした。しかも、乗組員たちは、正直で経験を積んだ船乗りでした。短い大西洋の横断の最中に、なぜ反乱が起きたのでしょうか。そして、たとえ乗組員が船を乗っ取ったとしても、なぜ彼らはその船を捨て小さい救命ボートに乗り換えたのでしょうか。メアリーセレスト号の謎は、1884年に有名になりました。なぜなら、シャーロックホームズ物語の作者、アーサー・コナンドイル氏が「メアリーセレスト号」という幽霊船について物語を書いたからです。この謎に関する何冊かのベストセラーがイギリスとアメリカにすぐに現れました。こんにちでさえ、謎に包まれたメアリーセレスト号に関する多くの本とウェブサイトが存在するのです。

メアリーセレスト号に何が起きたのか
 運命の航海の数日前、ブリグス船長は母親に手紙を書きました。彼は航海の仲間のことで喜んでいました。「とてもよい航海士と賄い長がいて、愉快な航海になると思います。」そして彼はまた新しい船にも満足していました。「私たちの船はよく手入れされていて、すばらしい航海になると思います。」彼は娘のソフィアについても書きました。「彼女は本当に賢そうで、やってきたときにひいていたひどい風邪からも治り、ハヤシ料理とバターつきパンにかなりの食欲を示しています。航海は大いに彼女のためになると思います。」
 不運にも、11月23日ごろ、南西から強風が吹き、天気は荒れ模様になりました。ブリグス船長は、風を避けるためアゾレス諸島のサンタマリア島の北を航行することに決定しました。25日の午前5時、メアリーセレスト号は島の西方の黒い点の近くにいました。午前8時、船は島の北東部の黒の十字マークの近くにいました。午前8時直後、何か恐ろしいことが起きたに違いありません。そして、乗船しているすべての人は、全長7mの救命ボートに急いで乗り移らなければならなかったのです。2つの主要な説があるのです。
1.アルコール説 メアリーセレスト号のアルコールの積荷は危険でした。時間が経つうちに、樽から出た気体が船倉に充満し、爆発する可能性があったのです。ブリグス船長は以前、このような積荷を運んだことがありませんでした。そして彼の強い宗教上の信仰のせいで、彼はアルコールを恐れ、嫌っていたのです。アルコール説によれば、1700樽のアルコールが今にも爆発しそうだと彼に思わせるような何かが起きたに違いないのです。
 後に、メアリーセレスト号を調べたところ、9つの樽が空っぽであることが分かりました。また、船倉のハッチの2つがもぎ取られるか、あるいは吹き飛ばされるかしていました。おそらく、小さな爆発が起きたのでしょう。そして、ブリグス船長は救命ボートのほうが皆安全だと判断したのでしょう。そして、突然の嵐によって救命艇とメアリーセレスト号を繋いでいる太いロープが切断されたのかもしれません。ちぎれたロープが舷側にたれているのが発見されました。小さな救命艇は、母船から切り離されると激しい大西洋の嵐によってすぐにも転覆してしまうでしょう。
2.海の地震説 サンタマリア島周辺の海域では、海底で何度も地震が起きているのです。これらの地震の衝撃が、金属製の船にさえ深刻な損傷を与える場合があるのです。そして、メアリーセレスト号の真下の上下動の揺れによって大きな料理用レンジが動き、空で発見された9個の樽が壊れ、ハッチが開いたのかもしれません。レンジの煙、アルコールの強烈なにおい、そして繰り返される地震の衝撃が、積荷が爆発しているとブリグス船長に思わせたことも充分に考えられたでしょう。
 メアリーセレスト号は、無線以前の時代の唯一の幽霊船ではありませんでした。1849年のハーメイニア号、そして1855年のマラソン号も無人の状態で海上を漂流しているところを発見されました。しかしこんにちでは、それらは忘れ去られています。しかし、アーサー・コナンドイルの物語のおかげで、人々はメアリーセレスト号の運命について今でも思い出しあれこれ考えるのです。

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